ボルケーゼ美術館展
http://www.borghese2010.jp/
シピオーネ・ボルケーゼ枢機卿がその館に飾った美術コレクション。古代彫刻やレリーフはナポレオン時代にルーブルに500点も売却されたが、ルネサンスからバロックへかけての絵画の個人コレクションとしては最大規模。館内のビデオは教皇の甥の権勢のすごさを物語る。ベルニーニが彫ったボルケーゼ枢機卿の胸像はいかにも自信に満ちた笑みをたたえている。
カラヴァッジョ、ラファエロ、コレッジョ、ティツィアーノらの名作はキリスト教に題材をとったものばかり。そうした中にあってブレシャニーノの「ヴィーナスとふたりのキューピッド」とギルランダイオの「レダ」というギリシャ神話に基づく美しいヌードを館に対で並べていた枢機卿の美意識は豪奢である。
変わったものとしてアルキータ・リッチという画家に描かせた「支倉常長像」が展示されていた。制作年1615年。慶長遣欧使節団がボルゲーゼの館を訪れて歓待されたときのものだ。2メートル近いカンヴァスにほぼ実物大の支倉公が美しい着物をまとって描かれていた。
「ちりめん本を知っていますか?」
JFICライブラリー特別展示「ちりめん本を知っていますか?」は、JFICライブラリーのちりめん本コレクションの中から“Japanese fairytale series”(『日本昔噺』シリーズ)の各国語訳と日本の文化や生活様式などを紹介したものを中心に展示。
http://www.jpf.go.jp/j/about/jfic/lib/newly/crepe-paper_books.pdf
希望者に実物を触らせてくれた。(その前に手を消毒)。この手触りを味わわずに見るだけでは「ちりめん」と呼ばれたクレープ紙に仕上げた絵本の魅力は半減するだろう。
国立国会図書館をはじめ、所蔵する大学図書館も多い。
国際日本文化研究センター「ちりめん本データベース」
http://shinku.nichibun.ac.jp/chirimen/
梅花女子大学・長谷川弘文社の「ちりめん本」の世界
http://manabiya.baika.ac.jp/el/contents/00007_jaoFij/top01.htm
関西大学図書館電子展示室
http://web.lib.kansai-u.ac.jp/library/etenji/chirimen/index.html
『ちりめん本のすべて─明治の欧文挿絵本』
石澤小枝子著・三弥井書店
石井桃子展
石井桃子展(世田谷文学館で4月11日まで)
http://www.setabun.or.jp/exhibition/ishiimomokoten/
戦後世代が活字を読み出す頃、岩波少年文庫は宝の山だった。1950年12月発刊の『小さい牛追い』が第1号だった。そして、1953年12月に岩波の子どもの本シリーズが始まる。私たちはむさぼるようにこれらの新刊を読んだ。
そのとき、タイトルや作者の名前を記憶しても、子どもであった私たちは翻訳者の名前には無頓着だった。だが、後から驚く。あの絵本もこの読み物も同じ人が訳していたことに。その人の101歳という歩みをじっくり展示した今回の展覧会を回っているうちに、だんだん涙腺が緩む。この人無くして私は無かったとさえ言いたい思いにとらわれるからだ。
ありがとう、石井桃子さん!
「編み・組みの手技-籠・蓑など」展
日本民藝館の「編み・組みの手技-籠・蓑など」展を終了間際に観てきた。
http://www.mingeikan.or.jp/html/exhibitions-events-mingeikan.html
民芸館は定期的に観させていただくお気に入りのスポットだ。
この日も、2階の特別展を観る前にゆっくりと各室の併設展示を観て回った。これらも常に展示の入れ替えがなされるので新たな出会いがある。今回は、朝鮮時代の木漆工に惹かれた。
さて特別展であるが、一昔前まで私たちの身の回りの道具や容器には多くの編組品(へんそひん)があった。とりわけ山村においては身近な自然素材を用いてなんでもと言っていいぐらい多種の道具が作られてきた。
籠、笊、蓑、背当(「ばんどり」とも呼ばれた)、背負子、箕、帽子、傘、雪沓、草履、注連縄、神酒口、櫃、釜敷、手箒、と実にさまざまな用途に応じて編組品が生み出されてきた。
人々はこれら実用品に控えめだがしゃれた紋様を組み込んだり、色のリズムを配したりして楽しんできたことが分かる。自然素材の特性を活かし、ていねいに根気強く作られた品々には人々の手触りが残されている。
次回展示はいよいよ「朝鮮陶磁-柳宗悦没後50年記念展」(2010年4月1日~6月27日)である。
長谷川等伯展
長時間並んで待つのを避けてきた私が、久々に90分という長蛇の列に加わった。東京国立博物館でもうすぐ終わる「長谷川等伯展」だ。
http://www.tohaku400th.jp/
13時30分に着くと「90分待ち」のプラカード。げーっと思ったが、スケジュールが今日しかアキがない。天気もいいし、日光浴と思えばと並ぶ。並ぶと多くの人がまずこの長蛇を携帯で写す。
「なんでこんなに見に来るのかね」「ほんと、こんなに来なくてもいいのにね」と言いつつ並ぶ方々。ほとんどが中高年だが、ちらほら若いグループも。私の隣は親子3人組。
列はゆっくり進み何回も蛇行を繰り返す。女性の多くは日除け対策ににわかスカーフを頭に乗せ始める。本を読んでいる人も多い。90分だからけっこう読めるだろうな。60分たって列が何度目かの折り返しをしたとき、平成館と本館の間の細い空間から建設中の東京スカイツリーが見えた。まだ半分の高さというが大きいなあと思う。一巡して次に同じコーナーに来たときはもう角度が違って見えない。
ようやく入口まで最後の一列目となり入場したのはきっかり90分経った15時。中での渋滞を少しでも緩和するため100人ぐらいずつ入場させていた。おかげで観覧はまあまあ見て回れた。待ったのは90分、見るのが60分、計150分立ち続け、見終わって1階ロビーのイスにのびていた人も多かった。
だが皆さんよくご存知だ。これだけ等伯を一堂に、しかも眼前に見られる機会はないだろう。のろのろ進む列のせいで、私なんぞ常よりじっくりとその筆のリズム、勢い、息遣いを賞味し、空間処理の見事さに唸った。さすが等伯はビッグスターであった。
『源氏物語と音楽―文学・歴史・文化史の接点―』
明治大学古代学研究所・シンポジウム
2010年3月19日(金)
明治大学駿河台校舎
http://www.kisc.meiji.ac.jp/~meikodai/obj_info.html
[シンポジウム 〈少女〉は語る/〈少女〉を語る]をライブ中継
シンポジウム 〈少女〉は語る/〈少女〉を語る
2010年3月14日(日)14:00~
日本近代文学会東海支部シンポジウム
内容は以下。
http://d.hatena.ne.jp/toukaishibu/20100305/1267789601
このシンポジウムを、名古屋地区を中心に活動する、近現代日本文学・文化研究関係の学術イベントをライブ中継するプロジェクトDOAR@758が中継する。
開始時間に合わせ、下記サイトより試聴できる。
http://www.ustream.tv/doara758
「現代工芸への視点―装飾の力」展
昨日で終了した東京国立近代美術館工芸館の「現代工芸への視点―装飾の力」展は陶磁の作品を中心に、現代日本の若手の作品に見られる装飾志向の強い作品をずらりと並べ、きわめて刺激的な展覧会であった。
http://www.momat.go.jp/CG/power_of_decoration/index.html
いったい人はなぜ装飾を施すのか。たとえば日用に供せられる器としての機能だけを考えればそこに装飾がなくてもいい。実際、世の中にはそうしたものがたくさんある。また、そうした装飾を排した上で、なお大量製作品とは異なる伝統工芸の匠の技が生み出す工芸美もある。
だが、一方で実際には使用しない置物としての作品を求めもする人間とは装飾する動物だということかもしれない。自分のまわりをさまざまに飾ることから出発して、作品自体をさまざまに飾ることが生まれる。
洞窟に狩猟画を残したときから、アートが始まっているとしたら、飾ることには「願い」や「祈り」がこめられていたに違いない。きわめて伝統的な十四代今泉今右衛門と、有機的な形の集成されたオブジェを作る徳丸鏡子が共にこの「願い」や「祈り」ということを装飾に見出しているのはおもしろい。
しかし、この展覧会に並んだ作品に見られる過剰なまでの装飾から見えてくるものはそれだけではない。主催者が語っているように「デコ電」や「ネイルアート」に共通する装飾で埋め尽くしたい欲望、そこに現れる無意識の世界。逆にきわめて意識的な批評意識に満ちた、例えば壺に飛行機が突入したり、壺と鷺が半々であったりする桝本佳子の「○○/壺」シリーズや、大量製作のパーツを逆手に取った上田順平の作品。方法も絵付けにより埋め尽くす作品があれば、微分化された素材の集積が生み出す形態や質感にこだわる作品がある、というようにさまざまだ。「装飾の力」という括りには少し違うかなというオブジェもあるが、「装飾」ということばがもつ意味の広さを考えさせられる。
躍動する魂のきらめき―日本の表現主義
かつて松戸市教育委員会美術館準備室を率いていた森 仁史氏(金沢美術工芸大学)が、中心となって立ち上げた研究会が3年かかって問うた「日本の表現主義」。地方美術館が参加し、1910-20年代の日本における表現主義的傾向を広く集めて展示している。絵画、版画、写真、工芸、建築、映画、演劇、音楽、出版とおよそ芸術表現の全分野にわたる有名、無名の作品。西洋古典主義の模倣から脱却して、自らの内面を表現しようとしたとき、独自の表現が多くの同時代の西洋芸術思潮の影響と相俟って誕生したことが理解できる。
私たちの芸術はこれからいかなる表現を生み出していくだろうか、芸術と社会、芸術と生活を考えるとき、100年前のここに確かにある原点を振り返ることの意義は大きい。
迎春
明けて2010年元旦、部屋には暖かな日差しが差し込む東京。
我が窓からは真っ白な富士山が見え、まずはめでたき日和となった。
とはいえ、先行きの見えない世界。
足下を確かめることから今年を始めることにしよう。
その日々に心をつくすかたちあり栃の冬芽のいま凛として(清原令子)